りんご追分

りんご追分

ここのところ愛用macの調子が悪い。

先日もアップルアストアのジーニアスバーに検診を受けるべく、PowerBookG4という種である我がリンゴをかつぎ渋谷に遠征したばかりだ。


やはり真夏にクーラーもつけない部屋で1日10時間位は平気でガンガン使っていたのが悪かったのだろうか?それにしても7月に買ったばかりで、エチレンガス多量分泌による急速な老化現象のごとくこのように衰えてしまうとは、潜在的に繊細な、あるいは脆弱なリンゴ。
強制終了、カーネルパニックダーウィンの表示、ファームウェア画面の起動、などとリンゴパニックがあい続き、連日連夜悪戦苦闘、真っ青になってジーニアスバーやらサービスセンターやらに問い合わせること数回、ついに今月始めには修理に出し、ロジックボード交換という大業な手術まで施したばかりなのにはやくもジーニアスバーに担ぎ込まれるとは、なんとも不穏。


ただ今回のジーニアスバーに伺った件はApple HardWare Testが行えず、エラーによるファームウェア起動が続くトラブル検証のためだったのだが、原因はテストを行うDVDにあり本体はとりあえず健常ということで一安心な結果だった。
安心したのでそのままアップルストアでおこなわれていたマクロメディアSTUDIO 8のワークショップに参加したり、店員が狂ったように買いまくっているという新しいiMacに物欲をそそられたりしながら、なんとも穏便な方向で帰路に向かえたことを良しとすることにした。


現在では窓から侵入する小虫がキーボードに入り込むこと防止用キーボードカバーも購入し、これでもうプッシュされるキーから逃げ惑うキーボード内部に潜入した小虫の状況を妄想することから解放されるし、人間の膝を低温火傷で損傷しかねないほど熱くなる熱血型ノートPCを冷ますノート用ファンも購入し、Macがよけいな生命力を酷使することをやや押さえられるわけだし、環境は以前より洗練されたはずなので少しでもリンゴには長生きしてもらいたいと願うばかりだ。

賭博者の憂鬱

流鏑馬の憂鬱

少し前に発売されたipod shuffleの宣伝文句はこうだ。


”すべてを偶然にまかせよう”


液晶のない白いスティック状のシンプルなボディのipod shuffleをはじめてみた時、真っ先に選曲方法がどうなっているのか気になったが、どうやら選曲はできないことこそが売りになっているらしい。積極的に曲を選んで聴くのではなく、機械によってシャッフルされ用意された偶然によって流れる曲に身を任せようというのがこの商品のコンセプトだ。


ipod shuffleのHPにはこのような言葉がある。(http://66.102.7.104/search?q=cache:1LHW93o88XwJ:www.apple.com/jp/ipodshuffle/+ipod++shuffle+%E5%81%B6%E7%84%B6&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a)
iPod shuffleはあなたが過ごす毎日を少しずつ変えてくれるのです。次に再生される曲が予想できないというだけでも「同じことの繰り返し」から、ほんの少し解放されるはず。”

このようなうたい文句のipod shuffleは、今の時代の気分を結構的確についている気がしてならない。
例えば、現在私のPCに納まっている音楽のHDの容量は45GBで曲数は一万曲以上だ。しかし、この中で普段聞いている曲というのは多めに見積もってもアルバム10枚程度であり、100曲程度である。特に工夫しなければ何となくお気に入りの曲ばかり選択しているため、たまにipod minのシャッフル機能にたよってBGMのように積極的に意図しない曲を耳に流したくなるときがある。そうして普段聴くことを忘れていた曲の発見自体を楽しんだりしている。そういえば私がはじめてi-tuneから流れる音楽を友人の家で聴いた時も、いろんなアルバム、アーティストがシャッフルで流れていた。そこでは面倒なディスクのインアウトもなく、個人的趣向も大量な曲のミックスにより薄まったその音楽空間をスマートに感じ、早速i-tuneを自宅に導入したのが、思えばこれがi-pod mini取得への最初の一歩だった。


上記のipod shuffleのエピソードは東浩紀波状言論>情報自由論を読んで思い出したものである。偶然性をもコンピューターによって提供されること、そしてその需要は確実に高まっていることにについて少しメモしておきたい。


この間、小林薫の幼女誘拐殺人事件がとりざたされていたが、それ以来GPS付ランドセルが売れはじめているそうだ。ニュースでは連日のように若年層の誘拐、殺人の事件が報道され、それにまつわる親たちの不安や、地域ぐるみの監視体制の強化対策が特集されている。犯罪の温床だった繁華街に設置されていた監視カメラは、今や日常の生活を営む商店街にまで普及しつつあり、のちのち街全体がマンションのオートロックのような管理された環境になるかもしれない。オウム事件以来、電車も安心して乗れず、名前も顔も分からない隣人をおそれたり、動物の感染病を恐れるあまり牛にICチップを埋め込んだり、と、あげればおそらくきりがないだろうが、とにかく今、こうした神経症的な安全保障(保証)を求める声が高まっていることは事実である。
東浩紀によると、私たちの社会は規律訓練型権力よりも環境管理型権力、法や規範による秩序維持よりもアーキテクチャによる秩序維持の方に依存し始めているという。そしてその変化は、多様な価値観が許された表層と、徹底した情報管理によってセキュリティが守られるとい深層の2層構造が出来上がりつつあると指摘している。


例えばプライバシーをめぐる人々の対応の変化からもそういった状況を読み取れると東氏はいう。東氏が例にあげる、プリペイドカード式携帯電話使用の際の身分証明書の提示のように、犯罪の温床になる匿名性の排除があり、それと連動して、プライバシーを守ることが他人に自分の情報を知らせないことであるという単純な考え方ができなくなり、むしろ犯罪者やストーカーから護衛するために顕名の要求が高まり、相互監視が進み、プライバシーを個人のみで所有し守ることは不可能に近くなりつつある。


最近、webに関する興味からはじまってIT関連の情報が流れてくることが自分の身の周りに多いのだが、そのような会話の中に”個人の居場所をGPSなどの情報から獲得できる登録ユーザーに対し、企業がユーザーの携帯電話にちょうど降りた駅周辺のお店情報を発信する”という企画があることを聞いたことがある。

検索エンジンが目指すところは”親しい友人が提供するような検索結果”であり、個々人の趣向を踏まえた情報提供の最適化が今のマーケティングの主眼となっているようだ。

訪問した足跡が残るmixiというソーシャルコミュニティーサイトがはやっているが、ウェブサイト訪問の痕跡は個人の趣向の分析対象になり、閲覧それ自体が各々の存在を表明し、暴露していることを意識せざるをえないのが今の社会だし、コミュニケーションのありかたなのだ。私たちがこのような社会に参加するということは、群衆の中から細かく追跡されるネットワークに参加することを意味しているのである。


”なりすまし詐欺”というのも、かなり詳細な個人の趣向や環境を分析できるようになったここ最近の出来事だ。このような犯罪から身を守るためには、例えばクレジットカードはもちろんのこと、キャッシュカードは持たない、携帯電話も使わない、インターネットも接続しない、suicaは持たない、などという、かなり制約された生活を営まなければならない。生活の利便性を求めたらこれらを放棄することは難しいだろう。
こうした社会では個人情報が大きなデータベースに格納され、いつでも持ち出されうる。だからこそ便利なのであるが、それなりのリスクは背負わなくてはならない。だからこそ今セキュリティが叫ばれているわけだが、東氏によれば「セキュリティ」の語源は”単なる身体的な安全ではなく、世界に配慮(ケア)する必要がない精神状態、つまり何も考えずに安楽に生活できる状態”を意味しているという。


考えたり配慮したりという面倒なことを省略し、生活したい欲求から、コンピューター解析による検索結果であらかじめ選択肢を絞ってもらい、なんとなく快適な環境を提示してもらうことを享受する。大量に所持する音楽データの中から選曲することを放棄し機械の機能によって選んでもらう。そのような受動的な消費する「動物化」を避けることは、余程の修行僧でなければ無理ではないだろうか。こういった利便性を自由の拡大と捉えるか、束縛と捉えるか、というところが東浩紀の問題提起なのだ。


今、江戸時代の松平定家が老中に就任した時に読まれたとされる有名な短歌を思い出した。

「白河の清きに魚すみかねてもとの濁りの田沼こいしき」

これは、あまりの厳格な政治体制に締め付けられた人々が汚職だらけの田沼意次の時代を恋しがるという内容の短歌である。今読むと、あらゆるリスクを排除しクリーンな環境を目指すセキュリティ社会に対する現代の風刺にも見て取れる気がするのは私だけだろうか。計算できないリスクを含まない賭博は賭博ではないし、そういったものに魅力はない。『波状言論S改』の宮台真司の回で東氏が言うように、「強度」を高めるのは「偶然性」なのかもしれない。意図して〜だったことより、偶然〜だったことのほうがより面白みや醍醐味をを感じるし、予測できないアクシデントがなければ正直生きてて面白くない。


情報社会は確実に生活を便利にしているしなくてはならないものとして浸透しているが、そういった状況を手放しに歓迎し、セキュリティを斡旋することは、拘束的で生きずらい社会にもなりうることを私たちはもう少し考えなければならないと思う。

電脳による衝撃波

バトーから引用されるバセットハウンド

先週の土曜(11/05)、民放で『スィングガールズ』が放送するということで、まだ観たことないし、観てみようかな、とテレビの前に座るとたまたま同じ時刻に放送していたNHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」の方を先に見入ってしまった。


とにかく私にとってそこで流れた情報はかなり強烈で衝撃を受けた。一方で東浩紀動物化するポストモダン』の”データベース”的な概念がかなりリアルに接近してきたような気がし、ほれみたことか、というような(自分の手柄では決してないが)思いで興奮し、畳をたたきながら観ていたわけなのだ。
まだ観てない人や、観て関心をもった人に参考になるHPがこちら↓

http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/sci/

番組の解説付きのリンク集だ。
また、NHKスペシャルの放送記録

NHKスペシャル

も番組の概要が簡単にまとめられている。


番組の章立てを紹介すると


1章 脳の信号を利用するサイボーグ技術
2章 脳は機械に合わせて進化する
3章 脳が機械で調整される
4章 脳が全ての機械と直結した


という、10年前ならSF小説か何かで一般には一笑にふされかねない何かぎょっとする単文が並べられているが、今の時代では等身大な意味をもつ言葉なのだ。


この番組はサイボーグ技術の行方を追って、立花隆が世界各地を取材するといった設定になっているのだが、そこで取材された技術の中で特に印象深かったのは、カナダに住む”義眼”の男性の取材記録である。

仕事中に視力を失った彼は、脳に埋め込まれた差し込み口にチューブのような管をはめ、眼鏡についたカメラに映された画像の電気信号をチューブをを通して脳に送り込むやり方でものをみる。脳で認識されるその映像は、モノトーンのグラデーションからなる大きなドッド絵のようなものだ。彼は手術直後、100個の光をみることが出来たが、この技術の発明者が死亡し、機械の老朽化が進んだことで今は6個の光しかみえないとのこと。(というか、この技術の発明者の研究の跡を継ぐ人はいなかったのであろうか。よっぽどの天才で誰もついてこないかつかせない、ぶっちぎりステージだったのだろうか。)

この義眼の男性が外の風景をみて言った言葉が凄い。
『光の点が見えてきました。木が見えます。枝が揺れるたびに光が走るからです。』
また、6個の光がみえることに意味がありますか?という立花の質問に男性は
『あります。たった1つの光が見えるだけでも、私にとってそれは完全な暗闇ではないからです。』
と答える。
これらを聞いたとき、あなたはゴダールですか?と思わず声にだして突っ込みをいれてしまわずにはいられなかったが、この場面が凄いところは、今までスクリーンの光を目前にしてはじめてはかれてきたこのような台詞を、この義眼の男性は自分の脳内でもって実感し、もらしていることだ。
スクリーンで展開する映像の世界と脳の中で”認識”された映像の世界、何をもって現実の世界とみなすのか、認識の意味の曖昧さに立ち止まらざるをえない場面だった。


”バトー”がやってきた.....
というわけでこの番組に大きくショックを受けた私は今更ながら押井守監督の『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊−』と『イノセンス』をTUTAYAで借りて観、その電脳やらサイボーグやらの世界に熱くなるのだが、その話はまたのちほど。

感染

先日、鍋会で久しぶりに卵以外の動物性タンパク質を食したせいか、はたまた人々が帰った後の残った鍋うどんを処理すべく、3食うどんをしたせいか、そもそもうっかりはしゃいで飲みすぎたか、消化不良に苦しむ最中だが、ちょっと面白い映画を観たのでメモしたい。


感染 プレミアム・エディション [DVD]
題名:『感染』
監督:落合正幸


観れば分かるが1コマ1コマの気合いの入れ方がその辺りの映画と違う。
そしてコマの一連の流れはあたかも数列のようだ。
画面の多くは脅迫的なシンメトリーであるし、階層的なグリッド線が浮かんでくる。コマをつなぐ人物の出現シーンもある型を規則的に繰り返しているのだ。なにしろ佐野四郎が出てくる度に”これは小津では?”と条件反射的に疑ってしまうほどの主観カメラで映(移)されている。ホラー映画では主観カメラは多様されるようだが、被害者や加害者などの主観カメラのようにベタなコードが、佐野四郎の出現シーンにはほぼないのでより不気味だった。


ホラー映画で主観カメラが多く使われるのは一般的かもしれないが、この映画で際立つのはその視線の多さだ。医療ミスが起こる手術シーンのポリフォニックはほとんどドストエフスキーの世界模様である。痴呆の老婆が電気ショックのリズムに合わせてベットの上をジャンプしたり、医療ミスの原因と始末のやりとりで看護士が泣いたり訴えたり、医者が本音をぶちまけたり怒ったり、交錯、錯乱するそのシーンはまさに祭りだ。視点があちこちにぶちまけられた祭典である。
そもそも映画のテーマが”意識に感染する”というものなので、主観カメラで撮られた”意識”が拡張すべく”感染”することで映画自体のポリフォニーが高まるのは納得なのである。次はあの人、この人、といった感じで次々に視線のスポットライトが点滅してゆく様子はやはりホラー映画らしく不気味なのだ。


私もすっかり感染してしまったので他に移そう。
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マグロめだま8匹

めだまの輪

DreamweaverFlashなどのパックであるMacromediaのStudioMXが"8"にバージョンアップし、10月12日、日本語版が発売された。
英語版はすでに9月に発売されており、英語が堪能の方は早々と体験版をインストールしていたようだが、私にはそのような語学力はないのでおとなしく日本語版を待たざるをえなかった。結局日本語版は英語版に比べ1ヶ月遅れだが、機能やその概念などのややこしい翻訳作業のことを考えるとそれ位かかって当然だろうと思う。


本日、ひとつ仕事を終えたのでようやくFlash8とDreamweaver8の体験版をインストールする余裕が生まれる。早速どちらも起動してみる。


まず、しょっぱなで感動したのはタブ機能である。


タブといってもWindows版にはMX2004からある機能だったので、この感動はタブ機能がなかったMac版を使用する場合のみである。
私はMacMacromediaのStudioMX2004を使用し始めた当初、どれだけこのタブ機能を探したことか分からない。(それまでStudioMXはWindowsで使用していたので、windowsで使えたタブ機能は当然Macでも使用できると思い込んでいたのだ。ある参考書で”タブ機能はWindowsだけです”と書かれていたのを見つけてようやく納得。それでももしかして裏技でMacもタブ化できるのでは、という限りなく願いに近い疑いは消えず、今に至っていた。)
個人的にはタブが非常に好きで、PCに限らず、本やファイルにもついタブをつけてしまう癖がある。根本的に整理整頓が好む(というか整理整頓しないと気がすまない)。どのソフトにもどんどん搭載してほしい機能である。


その他にもFlash8はストリーミング機能の強化がめだま。何せ普通じゃ荒い画質の動画もFlash8でエンコードすると大変きれいだったりする。私もオンデマンドセミナーでちらっとみた程度だが、その差は歴然だった。新しいipodも動画が見れるようになったし、いよいよ本格的にストリーミングの時代がやってくる兆しをビシビシ感じる。

オタクニュース.com

アウラ

今日1ヶ月以上ぶりにVIDEO NEWS - ニュース専門ネット局 ビデオニュース・ドットコムをみた。
テレビでニュースをみていると”こんなときマル激オンデマンドならなんと語られるだろう”という風にしょっちゅう頭をよぎり、最近は選挙もあったので特にチェックするべきだとは思っていたのだが、脅迫的に何かに追われていたのでどうしてもみる余裕がなかった。(自分のブログの存在さえわずらわしく感じられ、封印されていた。)

ということで久しぶりの工学かがった人文のシステマチックな会話の刺激的な風を受けたわけである。

私のみたエントリーは民主党の前原さんがゲストの回と、斎藤環さんがゲストの”神保さんでもわかるオタク入門”だ。私としてはまっさきに斎藤環の回をみたかったのだが、好きな物ほど後まわしにし、自分自身をじらすというマゾ根性でまずは前原さんの回からみる。



前原さんの回というのも充分興味深いものだった。
印象的な論点は『民主党のイメージ戦略』についてである。
”男気をみせる”安い演出、ナチ的な強権な演出、さまざまあるが、民主党はコストはかかる(つまり直接的な効果を期待するのでなく、めぐりめぐってやってくるような、間接的な効果を期待する)演出(活動)をしたらどうなのかという宮台真司の意見。具体的には国民(特に都会の若い無党派層など)に、そもそも”幸福とは何か””自分とは誰か””政治とは何か”というような問いかけをし、民度を高めてゆくところからはじめる活動のあり方だ。
これは確かに”男気戦略”というようなハデでマッチョな安易な演出より、地道で労力のいる活動だが、有益ではあるだろう。
宮台さんが更に加えるには、前原さんは若いし、(ひらたく言えば)庶民出身の人なので都会の若い無党派層などのロールモデルになりやすいお得な立場なのだからそこは是非活用すべきだということ。

前原さんは代表といえども聞く姿勢を持っていた(ところどころの過剰な受容が鼻についたが)ので面白い対談であった。党首にしては少し宮台さんにリードされすぎかな、とも思ったが、会話の余地があるだけ今後の前原さんに可能性があるだろうか。



後編の高野さんのマル激は(申し訳ないが)足早に飛ばし、斎藤環のオタク入門へ。
この会のマル激は”5金”と呼ばれるスペシャル版の無料配信なので、ビデオニュースドットコムに入会してない方もみていただけると思う。
まずこの回は内容云々の前にその場の絵で楽しませてくれる。何せコミケ東浩紀斎藤環が遭遇するは、ワンダーフェスティバルで宮台さんがフィギュア片手にオタクに乗り気でない神保さんに懸命に解説するは、3人(宮台、神保、斎藤)がおにぎりむしりながら休憩時間もオタクについて語っているは、いつもならみる事のできない場面が満載だったからだ。

宮台さんはオタク論で有名な東浩紀の”データベース”の話をだしつつ、オタクの文化が情報をうまくひきだすフックとして機能を果たしていると語る。
加えて、なぜ彼らの文化が二次創作物なのかについてはベンヤミンアウラの引用を最初に出し、現実と虚構の分かりやすい対立で解説する。

宮台さんははオタクとは物を消費するのでなく、虚構を享受しているのだと説明。
彼の言う”現実はつまらない、くだらない、虚構の方がよっぽど豊かな経験が得られるんだ”というオタク像とは、現実から疎外されたからオタクにならざるをえなかった”ネガティブ”存在ではなく、はたまた、現実と虚構の境目を見失った存在でもない。彼らは現実と虚構のレイヤー分けができる上で、敢えて虚構を選ぶポジティブなオタク像なのだ。
ポジティブな意味のオタクとは、同じく宮台氏が見田宗介の『現代社会の理論』の中の”IT革命が大量消費社会の未来を明るくするだろう”という部分を例にあげ、説明するように、物の消費でなく情報の操作、享受によって存在する人たちのことである。つまりオタクは無数にある情報をデータベース化し、その組み合わせやチューンナップをしてで楽しむの人々なのだ。彼らは物を消費せずとも豊かで充実した経験を味わう。

私がオタクのあり方に大きく共感する部分はまさにここである。
ただし、自分がオタクであるという自信はない。
なぜならオタク論がセクシャルな話題になった時、精神科医斎藤環がいつも説明してくれる”萌え”の要素が欠けているからだ。私はややフェティッシュな傾向をもった本や映画やPC好きではあるし、斜視がちなひねくれものだが、自分の趣味に性的な衝動は自覚していない。そしてコミケ系の漫画を読みたいと思える自信はない。私の趣味は60年代風の古いタイプのものでまだとどまっており、何世代かずれているような気がする分、気後れさえ感じるのだ。ただそこがまた世界にひきこもる要因にもなるのだが。

ところで宮台さんが、前回の民主党の前原さんに語った”若い無党派層を獲得すれば”という発言を発展させ、『オタクのための民主党』というようなうまいことを言っており、少し感動した。今の民主党の中身は分からないが、オタク層と対話でき、信頼を得ることができる政党になったら、これは面白くなるはず。

サイトUPしました!

caricature park

ようやく自分でつくったサイトがアップまでこぎつけたぞよ!


コチラ→
http://c_park.j-mx.com//index.htm


ぜひぜひ遊びに来てください!
これを作るために何日ひきこもったか.....
とにかく外装を構築するのにいっぱいいっぱいだったのでコンテンツの中身自体はまだまだこれからですが、しょっちゅう更新しますので思い出した時にでも遊びにきてください!


追記:
今チェックしたらブラウザによってバグってるようです。
サファリは大丈夫なんですが、IEだと下に変な文字が表示されてしまいます。
これからなるべく急いで原因をつきとめます。
もしみていただいた方でバグってしまった方、すみません....