賭博者の憂鬱

流鏑馬の憂鬱

少し前に発売されたipod shuffleの宣伝文句はこうだ。


”すべてを偶然にまかせよう”


液晶のない白いスティック状のシンプルなボディのipod shuffleをはじめてみた時、真っ先に選曲方法がどうなっているのか気になったが、どうやら選曲はできないことこそが売りになっているらしい。積極的に曲を選んで聴くのではなく、機械によってシャッフルされ用意された偶然によって流れる曲に身を任せようというのがこの商品のコンセプトだ。


ipod shuffleのHPにはこのような言葉がある。(http://66.102.7.104/search?q=cache:1LHW93o88XwJ:www.apple.com/jp/ipodshuffle/+ipod++shuffle+%E5%81%B6%E7%84%B6&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a)
iPod shuffleはあなたが過ごす毎日を少しずつ変えてくれるのです。次に再生される曲が予想できないというだけでも「同じことの繰り返し」から、ほんの少し解放されるはず。”

このようなうたい文句のipod shuffleは、今の時代の気分を結構的確についている気がしてならない。
例えば、現在私のPCに納まっている音楽のHDの容量は45GBで曲数は一万曲以上だ。しかし、この中で普段聞いている曲というのは多めに見積もってもアルバム10枚程度であり、100曲程度である。特に工夫しなければ何となくお気に入りの曲ばかり選択しているため、たまにipod minのシャッフル機能にたよってBGMのように積極的に意図しない曲を耳に流したくなるときがある。そうして普段聴くことを忘れていた曲の発見自体を楽しんだりしている。そういえば私がはじめてi-tuneから流れる音楽を友人の家で聴いた時も、いろんなアルバム、アーティストがシャッフルで流れていた。そこでは面倒なディスクのインアウトもなく、個人的趣向も大量な曲のミックスにより薄まったその音楽空間をスマートに感じ、早速i-tuneを自宅に導入したのが、思えばこれがi-pod mini取得への最初の一歩だった。


上記のipod shuffleのエピソードは東浩紀波状言論>情報自由論を読んで思い出したものである。偶然性をもコンピューターによって提供されること、そしてその需要は確実に高まっていることにについて少しメモしておきたい。


この間、小林薫の幼女誘拐殺人事件がとりざたされていたが、それ以来GPS付ランドセルが売れはじめているそうだ。ニュースでは連日のように若年層の誘拐、殺人の事件が報道され、それにまつわる親たちの不安や、地域ぐるみの監視体制の強化対策が特集されている。犯罪の温床だった繁華街に設置されていた監視カメラは、今や日常の生活を営む商店街にまで普及しつつあり、のちのち街全体がマンションのオートロックのような管理された環境になるかもしれない。オウム事件以来、電車も安心して乗れず、名前も顔も分からない隣人をおそれたり、動物の感染病を恐れるあまり牛にICチップを埋め込んだり、と、あげればおそらくきりがないだろうが、とにかく今、こうした神経症的な安全保障(保証)を求める声が高まっていることは事実である。
東浩紀によると、私たちの社会は規律訓練型権力よりも環境管理型権力、法や規範による秩序維持よりもアーキテクチャによる秩序維持の方に依存し始めているという。そしてその変化は、多様な価値観が許された表層と、徹底した情報管理によってセキュリティが守られるとい深層の2層構造が出来上がりつつあると指摘している。


例えばプライバシーをめぐる人々の対応の変化からもそういった状況を読み取れると東氏はいう。東氏が例にあげる、プリペイドカード式携帯電話使用の際の身分証明書の提示のように、犯罪の温床になる匿名性の排除があり、それと連動して、プライバシーを守ることが他人に自分の情報を知らせないことであるという単純な考え方ができなくなり、むしろ犯罪者やストーカーから護衛するために顕名の要求が高まり、相互監視が進み、プライバシーを個人のみで所有し守ることは不可能に近くなりつつある。


最近、webに関する興味からはじまってIT関連の情報が流れてくることが自分の身の周りに多いのだが、そのような会話の中に”個人の居場所をGPSなどの情報から獲得できる登録ユーザーに対し、企業がユーザーの携帯電話にちょうど降りた駅周辺のお店情報を発信する”という企画があることを聞いたことがある。

検索エンジンが目指すところは”親しい友人が提供するような検索結果”であり、個々人の趣向を踏まえた情報提供の最適化が今のマーケティングの主眼となっているようだ。

訪問した足跡が残るmixiというソーシャルコミュニティーサイトがはやっているが、ウェブサイト訪問の痕跡は個人の趣向の分析対象になり、閲覧それ自体が各々の存在を表明し、暴露していることを意識せざるをえないのが今の社会だし、コミュニケーションのありかたなのだ。私たちがこのような社会に参加するということは、群衆の中から細かく追跡されるネットワークに参加することを意味しているのである。


”なりすまし詐欺”というのも、かなり詳細な個人の趣向や環境を分析できるようになったここ最近の出来事だ。このような犯罪から身を守るためには、例えばクレジットカードはもちろんのこと、キャッシュカードは持たない、携帯電話も使わない、インターネットも接続しない、suicaは持たない、などという、かなり制約された生活を営まなければならない。生活の利便性を求めたらこれらを放棄することは難しいだろう。
こうした社会では個人情報が大きなデータベースに格納され、いつでも持ち出されうる。だからこそ便利なのであるが、それなりのリスクは背負わなくてはならない。だからこそ今セキュリティが叫ばれているわけだが、東氏によれば「セキュリティ」の語源は”単なる身体的な安全ではなく、世界に配慮(ケア)する必要がない精神状態、つまり何も考えずに安楽に生活できる状態”を意味しているという。


考えたり配慮したりという面倒なことを省略し、生活したい欲求から、コンピューター解析による検索結果であらかじめ選択肢を絞ってもらい、なんとなく快適な環境を提示してもらうことを享受する。大量に所持する音楽データの中から選曲することを放棄し機械の機能によって選んでもらう。そのような受動的な消費する「動物化」を避けることは、余程の修行僧でなければ無理ではないだろうか。こういった利便性を自由の拡大と捉えるか、束縛と捉えるか、というところが東浩紀の問題提起なのだ。


今、江戸時代の松平定家が老中に就任した時に読まれたとされる有名な短歌を思い出した。

「白河の清きに魚すみかねてもとの濁りの田沼こいしき」

これは、あまりの厳格な政治体制に締め付けられた人々が汚職だらけの田沼意次の時代を恋しがるという内容の短歌である。今読むと、あらゆるリスクを排除しクリーンな環境を目指すセキュリティ社会に対する現代の風刺にも見て取れる気がするのは私だけだろうか。計算できないリスクを含まない賭博は賭博ではないし、そういったものに魅力はない。『波状言論S改』の宮台真司の回で東氏が言うように、「強度」を高めるのは「偶然性」なのかもしれない。意図して〜だったことより、偶然〜だったことのほうがより面白みや醍醐味をを感じるし、予測できないアクシデントがなければ正直生きてて面白くない。


情報社会は確実に生活を便利にしているしなくてはならないものとして浸透しているが、そういった状況を手放しに歓迎し、セキュリティを斡旋することは、拘束的で生きずらい社会にもなりうることを私たちはもう少し考えなければならないと思う。