プラスティックな誘惑

nekowani2006-05-03

1998年〜2000年に批評空間に連載された阿部和重の『プラスティック・ソウル』を読む。
自分にとって読める(読んでいる最中に恥ずかしくていたたまれなくならない)作家が激減する(作家は激減などしていない、単純に自分の許容範囲が年々狭くなってしまっているだけなのだが)中で、阿部和重は唯一、生活時間の第一優先事項となりうるものを書いてくれる作家で、その存在自体、感謝こそしている。

ここ数年、職場の関係上、あらゆる活動拠点になりがちな渋谷という街に、ブックファーストというまさに渋谷的な大型書店があるのだが、そこに平積みされた『プラスティック・ソウル』の、なぜか一番上に重ねられたそれだけが著者のサイン本であったというのを確認すると、ゴールデンウィーク前に一冊買いに来た自分にだけ向けられた何かの信号を感じずにはいられなかった。その偶然性、2006年3月に発売され、いつ行われたか分からないサイン会ではあるが発売日からそう間が経っているはずはないので、このサイン本は結構前からここにあったはず、と思われ、しかもいつ売られてしまってもおかしくないその1冊というまれな数字に、あたかも身体の寸法ばっちりでつくられた”あなた用の”云々の文句を彷彿とさせる状況に少しドキドキし、それが運命といわんばかりにレジに向かった思い出の本である。(しかし、本当はサインなどに魅力を感じたことは一度もないし、このサイン自体、本当に本人の署名か分からない、それはどちらでもよい。私が嬉しかったのはその”偶然の1冊”というシュチュエーションであり、たとえそれがブックファーストの店員による、ストックの棚からサイン本を一冊づつ店頭に出すという小粋な演出だとしても、そんなことは問題ではないのだ。)


前ぶりが長過ぎることは承知の上だ。言いたい度合いが高いほどすぐ核心へ行けず、かえってより遠ざかって周りをぐるぐる巡るのに楽しみを見出す。そういう風に言えば今この場での自分の像を、どちらかと言えば人からは敬遠をうける執拗なタイプとして自己主張できるだろうか。このタイプはいわば食事の時、一番好きなものを最後まで残しておく典型なのだが、それに加えて実際の私は健忘症の色が年の割には強く、一番大切に残しておいたものをいつの間にかすっかりまるごと忘れてしまう。中心をかいたそれはもはや嘘の嘘による嘘のための武闘派部隊としての戦いしか残されていない。そんな時よくちびまるこちゃんに登場するタマネギ顔のナガサワ君が友人のフジイ君に”嘘つき!”と罵るシーンがスライドし、メタファーの引力によって自分の皮がペロリペロリと愉快に剥けてゆくベタだけど楽しい映像が巡るのだ。


さて、事の本題はこの小説が(”小説”それはこうゆう場合、語ってよい言葉だったのだろうか。テクスト論者の子供として躾を受けた自分にとってはひどくうしろめたいものを感じる)あまりにも断片で、統合への意志をほとんど隠したより物的な小説であるということだ。ここで立花隆NHKサイボーグ特集の台詞”外部化された記憶”を思い出す。(その言葉をここで出すのははあまりに危険行為な気がするが、フィールドワークが狭いため、これ以外の的確な言葉が思い浮かばない。)
というのも、統合の意志を欠いたそれはより部品な羅列であり、主体や時系列がきちんと把握できるよう設計された他の小説で得られる体感的な空間の快楽はほとんど無視しているように見えるからだ。
そしてそれらパーツはあたかもそれ単独で記憶を所持しているかのごとくあらゆる情報を与えてくれる。
例えば、ここに出てくる麻薬の名前の頭文字"X"だとか"G"だとか"C"だとかのアルファベットの羅列が快楽の象徴となり、映画女優と同性同名の”ヤマモトフジコ”という名前が”富士は日本一の山”という連想によって性的な対象(萌え)となる。また、虚構のゴーストラーター集団はそれぞれア行の頭文字をもった名字でそろえられており(唯一揃わなかった”オ”のつく名字の不在の作家”オノダシンゴ”は他の実在するア行の名字をもつ4人で演じられる、または”穴”を埋めさせる)、実在を欠いたそれら言葉遊びの妄想世界は歯止めなく膨張し、たやすく消滅してゆくのだ。(この皆殺し的な展開は阿部和重のパターンといったら過言だろうか。)


ここで”私”と”わたし”に分裂するアシュラ男爵顔の男アシダイチロウ、時にヤマモトフジコは、その亀裂をエネルギーに物語を跳躍し、断層付近で楽しむ。カラーコーディネーターたるヤマモトフジコの色彩判断が鈍るのを兆候として、あらゆる境界線が曖昧になり、拡張したそれを頑強な信仰心で確固としたものとして成立されてゆく”曖昧な記憶”のオカルト世界で、容易く他者と入れ替わるような経験をする。私の知っている時代遅れの言葉が許されるのなら、あからさまな象徴交換が白昼堂々と行われているイメージだ。(以前、象徴交換とは夜、人には分からないようにこっそりしめやかに営われることが多かったような印象があるが。)
幽霊が可視化する時代、誰よりも現代的な小説を書いてくれるひとりが阿部和重だという認識は固いと改めて思った1冊であった。(という言い草の終わり方には何か決定的な不手際があるような気がしてならず、この最後の括弧で括られた一文を追記として残さずにいられない衝動にかられる。)