もだえ苦しむ活字中毒者、地獄の渦巻にて歌う

もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵/

紀伊國屋ジュンク堂をはしごにし行き着いた先の蔦屋で発見した『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』と『よろこびの渦巻』。90年代初めに関西テレビにて放送開始した深夜ドラマで、椎名誠の原作を黒沢清が監督した作品である。


『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』

活字中毒者たるたみやこうじに、大杉蓮扮する塚田マコトが自著の『評論 呪いの藁人形』を捨てられた恨みを晴らすべく、彼を味噌蔵に閉じ込め、無理矢理『評論 呪いの藁人形』を読ませるという復讐を計る。本がいっぱい詰まったみやたの持参のバックはまるごと、むごくも塚田の手によって地獄の業火で焼かれ、手元からあらゆる活字を剥奪されたみやたは、活字不足のため味噌蔵でもだえ苦しむ。
連続性視覚刺激過多抑制欠乏症となり、もはや白紙の意識となったみやたは、危うく『評論 呪いの藁人形』を語り行脚する琵琶法師として、もしくは『評論 呪いの藁人形』そのものを体現する人間として言語学者によって教育されてしまうところを寸前で逃げる。その後はみなごろしの戦争が味噌蔵で勃発。



『よろこびの渦巻』

”占いとは確率じゃない、原理なの、道徳なの、ものの見方なの”と語る唯占論者の占い師の父を持つ息子、松田ケイジが、よろこびとかかなしみとか幸せとか不幸とかに反発する。食べ物を投げる息子を怒る占い師の父はおかずののったちゃぶ台をひっくり返す。父が”唯占論”と書かれた札を首からぶらさげ占いを宣伝して歩く様子は、小津の作品『生まれてはみたけれど』の”この子に食べ物をあたえないでください”という札をぶらさげて歩く弟の姿を彷彿とさせる。
一方、反占論を唱える集団が木々の隙間で文語調で弁論する。ウィークエンドに似ている。何やら発煙物が投げられる。行進、脱線する松田ケイジ。藁交換で金を獲得し、幸福が来たとよろこぶ女の手にした札束を宙になげ、音のはずれた歌を、しかもあきらかにアフレコと分かる形で歌う彼の歌は、よろこびとかかなしみとか嫌い、とにかくありのまま生きるだけ、みたいな歌詞。
そんな占い師の息子、松田ケイジの肩を叩く”わかるよ”とつぶやく人が現る。パスワード;”わかるよ”と書かれた殺しの依頼を受けた殺し屋は、高層ビルより”わかるよ”の発生を監視しているため、松田ケイジの肩を叩き”わかるよ”とつぶやくその男を発砲する。だから2度からの”わかるよ”とつぶやく人の登場からは血まみれだ、しかも彼の登場には乳製飲料の紙パックがプラスされている。最終的に彼のおかげで話はまたもや皆殺しで終息する。



登場人物の台詞が空ショットのごとく棒読みであるこの時代の黒沢清の作品がとても好きである。何だかあらゆることを無視している。今回みた2作品は『ドレミファ娘の血は騒ぐ』以来の衝撃を受けた。これは傑作ではなかろうか。間違いなく並々ならぬ諧謔が弄されている。今年観た映像物の中ではピカいちで笑することのできた作品だ。

こういう風な映画、黒沢清はもう撮らないのだろうかな。