Tシャツプリントの階段

9.11数字葉Tシャツ

友人の誕生日プレゼントにとTシャツにプリントしてみた。
イラストは手書きで紙に書いたものをスキャンした。
ちなみに友人の誕生日の日付は9.11なので、数字の9と1を木の葉にみたててみた。これを着ると政治活動家に勘違いされないだろうかな。


Tシャツプリントは最近我が家に器用なプリンタ(CANON PIXUS MP770)がやってきたので実現。
この新しいプリンタは複合機でありながらカラープリントとモノクロプリントの領分をきちんと分けており*1、カラープリントのレベルもそこそこ。Tシャツ転写紙プリントにはまず問題はない。


ここで今回私が踏んだTシャツプリントの手順を紹介。


1.オブジェクトの素材をおおまかに手書きでトレース(近所の文具屋に一番安いトレース用紙を求めたら、プリキュアが表紙で”うつしえ”と書かれた商品を渡された。とにかく本当に安かったので購入。)または紙に直接イラストを書く。


2.1をスキャンし、パソコンにJPEG形式でとりこむ。


3.2をIllustratorで読み込む前に、Cocoapotrace.appというフリーソフト(”http://mortimer.hp.infoseek.co.jp/”で入手。重宝。)でラスター→ベクター画像に変換。ここでオブジェクトをパス化する。(IllustratorのCS2ならライブトレース機能があるだろうが、それ以前のバージョンでラスター画像だったものを自力でトレースするのは大変なのだ。)


4.3の画像を加工する。


5.4を反転させたものをTシャツプリント用転写紙にプリント。


6.アイロンかけて完成。



今回のポイントは、プリントしたイラストは一枚の紙にまとめて書かず、セル画アニメのように各部品ごとに紙を分けたこと。こうすればIllustratorで作業する時に部品ごとにレイヤーを分けることができる。


他にもポストカードや封筒も作成してみた。
いつもパソコンで作ったものはデジタル内部で終わってしまっていたので、こうして物体化されるとまた別の歓びがあることを実感。
またTシャツ作ろ。

*1:モノトーンでプリントする場合、C,M,Y,Kの4色の染料インクによるグレースケールプリント以外に、顔料系ブラックインクによるモノクロ印刷が可能。書類などのプリントに関しては後者の方がランニングコストも印刷スピードも見栄えも優れている。ちなみにこのレベルの複合機で顔料系ブラックインクでのプリントに対応しているのはCANON PIXUS MP770が唯一であると電気屋が言っていた。

『1900年』に生まれる

本日の映画はベルトリッチ『1900年』。


正直、叙事ものや歴史スペクタルみたいなものを苦手としてきた自分には少し抵抗があり、しかも5時間16分という上映時間におそれをなして今まで観るのに踏み切れなかったこの作品。だが昨日の『暗殺の森』の衝撃の勢いで本日朝一で図書館のAVコーナーに訪れ、管理人さんの配慮で6時間半の余裕をもって席を予約するにいたった。

見始めてしまえばなんのことはない、トイレ以外、席をはずさず一気に観たが、全くあきさせず、あっという間の映画だった。面白い。
例のごとく、全編観賞後も特定のカットを見返したりジャケットの裏の解説に目を通したり、映画の余波に浸る時間が必要になった位だ。


さて、やはりここでも監督ベルトリッチとカメラマンのストラーロのコンビに出会える。ベルトリッチは期待にもれず全体の構成の仕方がうまいし(でなければこれだけ観れる長時間映画をつくれるわけがない)、ストラーロのカメラワークによ映像も隙がない。ただ、これだけの長時間ものであるだけに、さすがに『暗殺の森』ほどの冒険はない。


ここでカメラマン”ビットリオ•ストラーロ”とは誰か。ということが気になって、自宅にあった同居人の映画本の中から『マスターズ オブ ライト』という本の中に収録されたストラーロのインタビューを読む。


そこでストラーロは”撮影とは光で書くこと”と語っている。彼の撮る映像が妙に記号的、デザイン的なことに納得。それが時に分析的(彼はインタビューの中で精神分析的なシンボル理論を用いた経験も語っている)にみえることも諒解した。
ただ、それだけではさすがに映画らしくない、といかは鼻につく映像になるだろう。そうはならないのはその意図はかならずしも完璧ではなく、余白があるからだ。ストラーロはそのことにも気づいているようで”まったく(合理的に)説明できないときもある”というような発言もしている。


そもそも撮影監督の仕事はいったい映画のどのあたりまでなのだろうか。
このインタビューによるとストラーロは画像の色み(光量や角度、レンズフィルタ、現像によって、それらを調整できる)などもかなり操作しているようだ。それ意外にも、構図や遠近などはどのくらい介入できるものなのだろう。
監督とカメラマンによって様々なのかもしれないが。


ちなみのこのカメラマン、『歓びの牙』も撮っていたのか。ちょうどよい季節だし、ちょっと観返してみようかな。

『暗殺の森』に迷い込む

大団円の急襲(吸収)

ベルナルド•ベルトリッチ『暗殺の森』(原題は”Il comformista”で「順応者」という意味)を観た。


もうご飯3日間食べなくてもよい。
今なら映画と心中できる。

と思えるほど興奮の境地に立たされる映画だった。


ストーリーを簡単に説明すると、幼い時に男色と殺人のトラウマをもつ主人公、マルチェロが、”正常な人”になるためにファシズムの政治組織で秘密警察活動をする話。もっと圧縮するならば狂気と正気の二項対立。


しかし一体誰なんだ、この映像を設計したのは?
監督のベルトリッチか、あるいは撮影監督のビットリオ・ストラーロか。
まさにどの画面も”設計”か、あるいは”デザイン”と呼ぶにふさわしい構成であり、そこには手放しの映像などないに近い完璧さ(あざとさ)だ。
ここにその例をいくつかあげる。


•ブラインドの光が差し込み、部屋中縞模様の影で覆い尽くされる中(ちょうどマン•レイの写真のよう)、モノトーンの横縞のワンピースを着たジュリアがマルチェロの前で、音楽にあわせて招き猫のようなダンスをするシーン。


•アプラリ(”木”という意味)という母の愛人を消し(おそらく殺し)、枯葉を巻き上げ車に乗るマルチェロと母のローポジションのシーン。


•色とりどりの丸い照明がぶら下がる盲人達のパーティ会場。


マルチェロと教授がプラトンの”洞窟の比喩”を語り合う部屋にて。左半分の窓が閉められ、マルチェロに対する教授の顔が逆行で一向に真っ黒。見えない。声だけ響く教授。


•教授夫婦とマルチェロ夫婦の夕食会の図。大団円のダンス。(踊る人々が次々と手をつなぎ、大蛇のようなうねりをなしながら店の外にで、店の周縁を巡っている間、マルチェロ空っぽになったダンスフロアを横切り、見張りの政治組織の仲間の席へ、教授殺人の決行を知らせに行く。その後、店内に戻って来た大団円のうねりの中心に巻き込まれるマルチェロ。)


•上記の舞台となる中華レストランにて、マルチェロとその見張りが顔を寄り詰め、言い合うシーン。(壁に身を潜める二人の左半分の手前側には、吊り下がる照明がぶらぶら揺れ動き、その奥には厨房のコック達が立ち回る音や姿がある。)


暗殺の森のシーン。



まだまだあるがきりがないのでこの位で。とにかく、ざっとあげただけでも記号的、設計的なシーンがこれほどある。


さて、もっと印象的な話をするとドミニック・サンダをあげなければならない。強烈だ。冷めてはいるが凄みのある演技ができる女優で、男性役でジュリアとダンスをする彼女の妖艶な容姿に猛烈に魅了される。最後の暗殺されゆく森で、マルチェロの乗る車の窓にへばりつき、絶叫する彼女にも激しく動揺。



観賞後、放電後の痴呆と化し、とにかく何も手につかない。
このままでは死ぬまでにこの映画をスクリーンで観なければ死にきれない。
何かそのような幸運な情報(ベルトリッチナイトなどの情報)を握った方がいらっしゃれば即刻ここに連絡していただきたい、という意向をここに表明しておく。

『河内山宗俊』という名の男

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居酒屋のおかみの夫、河内山宗俊と用心棒の金子市之丞が、(幼なじみだった吉原の娘と心中を試みるが一人生き残ってしまった弟の賠償のため)身売りを決心する甘酒屋の娘を助けるべく奮闘するお話。

16歳の原節子がみれる。

私にとってはただそれだけでも観る価値があるこの映画。
この人がスクリーンに出るだけで、かつての刷り込み的映画経験によって条件反射的な喜悦感が沸き起こってしまう。


それにしても山中貞雄という監督は情景描写が絶妙だ。

花魁宿のやからが原節子のもとに三百両を出すか身売りするかと脅しにきたシーンでは外に紙吹雪(にみえる)の雪を降らせたショットや、「人間らしくなった気がする」というようなことを語る金子のくわえていた楊枝のドアップショットなど、映像で語らせる術を知ってる表現をするのだ。最後の家と家の狭間の水路での乱闘シーンもさすがなのだ。誰が逃げる逃がす、敵を塞ぐ塞がないのやりとり、次々とスクリーンに流れ込んでくる人の流れ、水しぶきをあげ姿をくらまし、小さな橋を渡り別の区域へ移行し....といのを路地のようなその狭く深度の深い水路でくり広げられる。


う、うますぎる、格好いい。


ちなみに『人情紙風船』にも出ていた中村翫右衛門という人、印象的な俳優だ。歌舞伎の人らしい。

「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。

人情紙風船 [DVD]


「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。
 負け惜しみに非ず。
山中貞雄 陣中日誌(遺稿)より抜粋


この映画の公開した1937年、山中貞雄は中国へ出征し、38年7月、河南省で急性腸炎に罹り、9月17日死去。享年29歳。

首吊りのエピソードからはじまるこの映画の舞台装置、長屋。
浪人になりさがる海野又十郎の妻が紙風船作りの内職をする部屋の隣には、気風がいい髪結の新三が住んでいる。


金魚売りやひょっとこや、通夜の宴会や縁日など、監督のユーモアセンスの光るカーニバル、そのような交錯点が溢れる情景の最大の山場は、なんといっても毛利に断絶を受け絶望する又十郎と、復讐するべく白子屋の娘を誘拐する新三の物語が勃発する縁日後の雨のシーンに違いない。


ラスト、祝いの酒盛り後、又十郎と新三の落下する運命を見届けると、道の脇の水路に転がる紙風船の流され、小さくなっていく情景とともにスクリーンはフェイドアウト


無情紙風船、チトサビシイ...

銀座で放心ダラー

本日、『ミリオンダラー•ベイビー』を観に行く。もう時期を逃したのか、近くでは丸の内ピカデリーでしか上映していない。しかも1日2回。

久しぶりにこれほど巨大な映画館に入った気がする。

座席ではポップコーンを食べる観客が多く、たじろぐ。映画館で物を食べるという光景を長く目にしておらず、気後れ。四方八方からポリポリ音がするので正直イライラしてくる。
しかし、映画がはじまったとたん、画面に引き込まれたのか、周囲から食べ物の音が全く聴こえなくなる。ポップコーン級の観客たちをも引き込ませ、静かにさせる映画、『ミリオンダラー•ベイビー』には確かにそれだけの威力がある。
自分にしても、足を組み直す位の動きもできないほどスクリーンに釘付けにされる。観賞後も放心状態で間違って異性のトイレに入りかける。

内容についてはあえて語らない(HP上で詳しい情報は得られるし→ミリオンダラー•ベイビー)のでまだ観てない方は是非劇場へ足を運んでいただきたい。

迷簿の取り扱いについて

迷簿

この日、3日ほど滞在予定で実家に帰る。(用事が出来て実際は一泊しかしなかったが。)
macももちろん持参。なんだか一身同体。(しかし、時間がなくてほとんどmacでの作業は行われなかった。持ち歩くのは重いし危険だったのに、リスクを背負っただけの意味がなかった。)


実家にて、卒業した大学から送られてきた小包を発見。
中身を確認すると厚さ10センチほどあろうかと思われる卒業生の名簿が。

名簿には数十年も前からの卒業生の名前が載っている。
しかも載っている項目は、住所、ゼミ(の先生の名)、卒業高校、就職先まで。

これって、いいのかな?私知らなかったんですけど、このような名簿が作成されることについて....
一応、数ヶ月前の『同窓会だより』にて「名簿への掲載、不掲載のご意志」を確認する葉書が送られたとのこと。しかし、そんなたより読む人いるのかな。実家を出ている私なんて、読む機会さえなかったよ、個人的な理由だが。
よって自分は不掲載の意思を表してないが、掲載の意思も表してない。けれど、しっかり情報は名簿に公開されている。

この名簿の作成は、50周年記念の一環としてだそう。同封された説明書によると「代議員会」というところの「激烈な要望」に基づいた発行だそうである。何に使うつもりなんだろ、激烈な要望だなんて、気持ち悪いな。

これって、絶対犯罪に使われるような。うちの大学卒業という情報には特殊な付加価値がつくので、欲しい人はあまたといるはず。しかもこの人数の多さといい、情報コンテンツの充実といい(就職先まで載せるとは...)
かなり高値がつくのでは?

今こんなの作成した波紋はあるだろうな。クレームもあるに違いないんだろうな。