『1900年』に生まれる

本日の映画はベルトリッチ『1900年』。


正直、叙事ものや歴史スペクタルみたいなものを苦手としてきた自分には少し抵抗があり、しかも5時間16分という上映時間におそれをなして今まで観るのに踏み切れなかったこの作品。だが昨日の『暗殺の森』の衝撃の勢いで本日朝一で図書館のAVコーナーに訪れ、管理人さんの配慮で6時間半の余裕をもって席を予約するにいたった。

見始めてしまえばなんのことはない、トイレ以外、席をはずさず一気に観たが、全くあきさせず、あっという間の映画だった。面白い。
例のごとく、全編観賞後も特定のカットを見返したりジャケットの裏の解説に目を通したり、映画の余波に浸る時間が必要になった位だ。


さて、やはりここでも監督ベルトリッチとカメラマンのストラーロのコンビに出会える。ベルトリッチは期待にもれず全体の構成の仕方がうまいし(でなければこれだけ観れる長時間映画をつくれるわけがない)、ストラーロのカメラワークによ映像も隙がない。ただ、これだけの長時間ものであるだけに、さすがに『暗殺の森』ほどの冒険はない。


ここでカメラマン”ビットリオ•ストラーロ”とは誰か。ということが気になって、自宅にあった同居人の映画本の中から『マスターズ オブ ライト』という本の中に収録されたストラーロのインタビューを読む。


そこでストラーロは”撮影とは光で書くこと”と語っている。彼の撮る映像が妙に記号的、デザイン的なことに納得。それが時に分析的(彼はインタビューの中で精神分析的なシンボル理論を用いた経験も語っている)にみえることも諒解した。
ただ、それだけではさすがに映画らしくない、といかは鼻につく映像になるだろう。そうはならないのはその意図はかならずしも完璧ではなく、余白があるからだ。ストラーロはそのことにも気づいているようで”まったく(合理的に)説明できないときもある”というような発言もしている。


そもそも撮影監督の仕事はいったい映画のどのあたりまでなのだろうか。
このインタビューによるとストラーロは画像の色み(光量や角度、レンズフィルタ、現像によって、それらを調整できる)などもかなり操作しているようだ。それ意外にも、構図や遠近などはどのくらい介入できるものなのだろう。
監督とカメラマンによって様々なのかもしれないが。


ちなみのこのカメラマン、『歓びの牙』も撮っていたのか。ちょうどよい季節だし、ちょっと観返してみようかな。