鶏目の女

とは、鶏に目をつつかせる女のこと

今日は朝からpower book 背負って、近く(といっても2駅先)の母校の図書館に自転車でいく。凄まじい日照りにおじけつき、強力な日焼け止めを取りに一度自宅にカムバック。
途中、とても一般の歩道とは思えない傾斜60度ほどあるのではないかと思われる坂道(というか、山道、行きは登り坂)がある。真夏の日差しの中、macかついで自転車引きずることに何かしら訓練的、ストイズムなムードが急速に高騰するが、内的葛藤からふとはずれてまわりを見渡せば、自転車を引きずりながら坂道を登る鈍い動きの人間が自分以外にも幾人か連なっていることに気づく。この状景を全体的に振り返ると、あたかも刑に服する牢人達の労働風景のようにみえてくる。なんでこんな坂あるのだろう....この坂こそがが自分が住んでる地域と学校が所在する高級住宅地域との格差を象徴しているのだな、と学生時代の夏目漱石論のような分析が呪いのように浮上してくる。なんとか登りきるとようやく平たんな道が到来し、ようやく椹木野衣だな、などという人文系の思考回路のなごりでそのようなひとりしりとりを思いつきつつ学校へたどり着く。


さて、さっそく図書館のAV施設の階へ向かう。念願の山中貞雄『丹下差膳 百万両の壺』を鑑賞。百万両の価値がある”こけ猿の壺”と呼ばれような小汚い壺を巡り、人々が流動するお話。壺の所有者が百万両の価値を知るとその壺は手元からすり抜けてゆくように、壺に対する視点は幾度も換わる。やがてはくずやから引き取った父親の形見であるという子供の視点の対象物となり、壺は金魚鉢として使用される。壺の中身は交換可能だ。
価値を知らずにくず屋に売ってしまった大元の壺の持ち主が、”江戸は広いから探すのが大変だ。10年、20年、まるで仇打ちようだ”というような台詞が何度も繰り返すが、この”仇打ち”というのがそのままこの映画のいくつかの付箋となっていることを考えあわせると、壺と仇打ちは隠喩関係のようにじりじりと隣接している。つまり壺にはなんだか”死”がにおうのだ。
このような壺のありかたは、あの小津安二郎『晩春』の壺の名シーンを彷彿とさせる。というか、題名をみた時点で実はこれらのことは彷彿してしまう節もある。
ところで丹下左膳の大河内(デン)次郎、の演技が非常に魅力的だ。そもそもキャラ自体滑稽なのだが、(片目で腕なしの侍、ブラックジャックみたいな要素がいっぱい)、とくにこの人がぴょんぴょん飛び跳ねる立ち回りシーンは観てて思わずニヤけてしまうほど活気がある。
加えて女将のお藤役の喜代三という女優が、そのすれっからし感も含めてこの時代の女優にしては珍しい現代的な美人でまなこを奪われた。
ついでだが、加東大介のお兄さんも出演している。


映画鑑賞後、macにとりかかる前になんとなく画集の前をうろつく。特に目についたのが絵巻物で、面白かったのが『餓鬼草子 地獄草子 病草子 九相目詩絵巻』である。お腹ばかりふくれて痩せた餓鬼などが登場する絵巻物だ。
ひとつ紹介すると、ガンジス川のほとりに鬱曇鉢(ウドンハツ)という、三千年に一度花が咲くという木があるのだが、そのふもとに仏がおり、これが近辺の餓鬼等(この餓鬼たちは水が火になって飲めないので苦しんでいる)に神通力で水を飲ませ、説法を説いている。それを受けた餓鬼たちは菩薩の姿になって天上界へ昇るのだ。この一連の状景を一枚の絵の中で全て説明している。
あとたとえば”火末虫(ヒマツムシ)”という地獄名を”ひまつぶし”という音声で読んでみて、なんとなく自分のことになぞらえて地獄の絵の世界を夢想してみたりしても楽しむ。
とにかく絵がすっとぼけて面白いし、その絵に付随する物語の単語ひとつひとつにユーモアが溢れていて面白いのだ。見入ってしまう。


その後、あらゆる道具箱と化したmacを開き、FLASHの勉強。



帰りは急落下しないように細心の注意を払いながら自転車で坂道を下る。