『スパイダーマン2』雲の意図

スパイダーマン 2 (UMD Video)スパイダーマン2』を観る。
シリーズ第2段の醍醐味は「仮面の脱着」だ。
スパイダーマンことピーター・パーカーは、私的な生活(恋愛、大学の勉強、アルバイトなど)に支障をきたすスパイダーマンとしての役割に嫌気がさし、衣装を捨てることで「廃業宣言」をくだす。しかし、「おおいなる責任」から逃げ切ることができないピーターパーカーは(そもそもこのシリーズの面白さは、スパイダーマンの徹底して完結的な*1 身振りの派手さに対照的な、ピーター・パーカーの決定不能な在り方である。この不透明な状況にて、前回が「責任を引き受ける物語」だとしたら今回が「責任を降りる物語」である)、核エネルギー云々の大発明の暴走によって相対的に「悪」の立場にいるDr.オクタヴィウスにさらわれたMJを救う(というかもっとポジな意で奪還する)ために再びスパイダーマンを復帰するのだ。ただし、この復帰には単純に前回の責任を引き受けなおすのではない。彼は仮面を脱ぎ、「顔」をあらわにしたスパイダーマンとなるのだ。
仮面を脱いだスパイダーマンもしくはピーター・パーカーは、ブレーキの利かなくなった電車を止めるため、まさに体を張って崖墜落を食い止める。顔を見せたスパイダーマンと、次々と手を差し伸べ、力尽きた彼を支える電車の乗客たちの図は、「おおいなる責任」の分業の図である。彼は「ピーター・パーカー」という個人が「スパイダーマン」という公の存在であることをさらすことで一人では担いきれない責任の分散化に成功するのである。とすると『スパイダーマン2』は「超人*2リタイア、一極集中する責任の解体」が仮面の脱着によってなされるポストモダンだとも言えるだろう。

しかし凶暴化したDr.オクタヴィウスが、テリー伊藤マトリックス化のようにみえたのは私だけだろうか?MJが花嫁衣裳で教会を飛び出し、満面の笑みで走るシーンに妙に笑いを誘われたのも私だけだろか?シリーズにありがちなマンネリがなく『2』も面白く観れたが、『3』では親友とのせめぎあう決戦以外に面白さのクオリティーを維持できるだろうか?楽しみだ。

*1:物語の強さが低い、または背景的なエピソードをほとんど介さずにあらわれた、自律的な表象のことを意にしている。破天荒な暴力によってあたりを皆殺しにしていく光景を目にしたとき、殺されてゆくひとりひとりの文脈はほとんど分からず、殺人はただ目に見える確認事項でしかない。派手なアクションによって素早く大量に流される、暴力的飛躍による視覚情報は極めて自律的、完結的に思えた。

*2:ここでは特に深い意味はなく、単に人のレベルを超えた何者かをさしたい