「ひきこもり」引き交々

「ひきこもり」だった僕から友人から孫借りした上村和樹さんの『「ひきこもり」だった僕から』(講談社 2001)を読む。前半の「これまで(自分へ)」が魅力的。卓越した視線による印象を確信犯的な語りで綴っている。つまりそれは単なる“過去の記憶の叙述”ではなく、あたかも意味の付与をまってるかのような、虫眼鏡的なクローズアップの画面の列挙だ。読んでいて非常に引き込まれるので怪しんでいたのだが、彼がフロイトなどに傾斜していたということをおいおい確認して納得する。

OK?ひきこもりOK!続いて斎藤環OK?ひきこもりOK!』(マガジンハウス 2003)を引き算的に読んでいる(抜粋して読んでいる)。というのもこの書籍が対談と時評に分かれており、なかでも対談が中心になっているので、常の習いで興味深い対話者の掛け合わせから読んでしまうからだ。nekowaniの読んだ順番としては、最初に東浩紀、続いて宮台真司、最後に上野千鶴子という、“なじみ順”(相手は全て斎藤環)というやや保守的な姿勢。だがそれ以降も読み途中だ。彼らは例のごとく軽快な語り調子なので、ラカン精神科医斎藤環の臨床を離れたところの言い澱み(取りこぼし、両義性をなるべく含めようとするもの腰)がより炙り出されているように感じる。
壮大巨編の小説を書いたり膨大なデータベースを構築したりできる優秀なひきこもりの話が幾度となく(少なくともこの三名をゲストとする回、それぞれに)出てきたりして、なんとなくあせる。ひきこもりの中になにか出来る人とそこまで出来ない人の格付けがされてゆくような(明確な発言はないが、潜在的に潜むニュアンスとしてそのような印象を受ける)、プレッシャーを感じた。あと、宮台真司との対談の中でコミュニケーション能力の稚拙さの例として「性的弱者」がピックアップされる「性的弱者」に関する例が、これまた冴えない大学院生だったりして余計、分かるに分かるだけ痛い。(この件については『「ひきこもり」だった僕から』の中でも、「僕」が結婚相手がみつからないみたいなことで悩んでいる様子とも被るし、よく分かる。)ただこのような事について宮台さんが語ると、彼の持つ文脈があまりにも世に出回っていることもあって、ルサンチマンの尻尾に火をつけやしまいかと内心ヒヤヒヤする。

でもこうしてみると、ひきこもりの持つトラウマ(2冊とも精神分析界隈の書籍だったものでこういった表現になる。ただし、この言葉自体が極めて自閉的、ネガティブなものなので使うのに臆する思いもある)を程度の差こそあれかなり共有している気がした。同時にひきこもりになりたかったのになれなかった、というのに似た妬みを持っていることを改めて確認された気がする。