『郵便的不安たち♯』覚書 vol.1

郵便的不安たち# (朝日文庫)大学でテクスト批評の勉強をしていた頃、幾度となく論文を課されたが、その度に負に落ちない思いにかられたことがあった。たとえばそれは<論文とは「問い」をたて、それに対する「答え」を提供するもの>という暗黙のルールに従う時である。なぜ、あらかじめ答えを持っているものに対してなお問わなければならないのか、知っているものに対して一度知らん振りしてみせるという行為、そのような自作自演的な発見の捏造に対して漠然とした良心の呵責があったのである。
出来ることなら、分からない振りをした「問い」でなく、分かる見込みもない「問い」をしたいものだ、私は誠実に「問い」たい!などと奮起するのだが、その壮志はいつも遂げられない。「答え」のリミットはひとつの論文内だ。そもそもリングにあがる事自体、「答え」を担う義務がある。
そのような思いは様々な齟齬を生み出したり、これ以上何も言うまいと(というか無知すぎて何も言葉が浮上しない)唖を決め込んだり、とにかくジリジリモジモジしている時期に出会った「逃走」という浅田彰の言葉は非常に魅力的に響いた。それ以来、私はギリギリの臨界地点まで逃げることを常に念頭におくようにになり(それは実に都合よく機能した)、「答え」を提示することより、いかに周縁を走るか、ということにもっぱら熱心になったのだった。
そうこうするうちに私はすっかり後回し、もしくは保留癖がついてしまう。

いま、東浩紀の『郵便的不安たち♯』(2002年 朝日文庫)を読んでいる(こういう本が文庫化するというのはまことにありがたいことだ)。いままで私の中にあった(と思わせる)謎が明快に提出されており、大変面白く読んでいる最中であるが、ここでいきなり巻末を飾る斎藤環の解説にある<浅田彰東浩紀>軸の言及を抜粋したい。

 

一見難解で複雑そうに見える言説を、超越論的に整理して単純化し、それをもって答えに代えるという抑制のエレガンスが浅田氏の身振りであるとするなら、東氏はまさに浅田氏が整理し終えたものを、その地点からもう一度問い直すのだ。その明晰さを浅田氏は「問題の整理(と編集)」に用い、東氏は「暗号と問いの発見」に用いる。


この指摘はよく的を得ていると思う。ここで斎藤環が言う「超越論的」とは同解説内にある「ラカン的」な「否定神学」的な思考パターン(中心に欠如としてのファルスを想定することで確保される全体性のもと安定される思考パターン)と同じ文脈で語られているが、多少の誤謬はあるとしても大きな見方で捉えれば確かに浅田彰にはそのような傾向はあったようにみえるし、「問題整理」する人であったようにも思える。それに対し、東浩紀が「暗号と問いの発見」する人として指摘されるのも、この本を読むにつけてまたしかりなのだ。彼はあらゆる論壇を舞台に幾つものレヴェルに渡って「問い」を投げかけているのだ。しかも一つの「問い」がまた次なる「問い」を生む、という風に。

同書に『ソルジェニーツィン試論―確立の手触り』という、非常に気がかりな東の批評空間デビュー作が掲載されている。そこには徹底的に「問う」ことについて問われている。一読者としては、そこに何か予言的な示唆を見出したくなるのだが、まだこの評論自体、私の中で回収されきれておらず、語るに語れないので、時期をみてまた後々に…