動物化するシンセミア

シンセミア(上)シンセミア』を読み終わる。この一週間まさにシンセミア中毒に侵されていたが、ようやく打開への一縷の光がみえつつある。

今回も山形県東根市神町が舞台。語り手は特定せず視点は次々に移り変わり、鼠さえもが語る目線の持ち主として登場するほど、端的に膨大な<量>を印象つける小説だった。

そもそも始めから<数>の問題だったのではないかと不信を抱かせる。思えばこのシンセミアを読む一週間、私は偶然のように挙げられてゆく数字の列挙につい意味を見出してしまいたがる衝動にかられ、1919年とは、1989年とは、8時とは、10人とは、69とは…という風にいちいち疑惑の念に囚われていた。まさにそこは溢れんばかりの数の祝祭だったように思われる。四方八方に飛び散る数の乱舞を眼前にあわてふためく読者、nekowaniがしがみつけるものとして唯一見出したものは神町という磁場の束縛のみであり、しかしそれさえもよくよくみるとどうやら国家のアレゴリカルな圧縮をはたしているような気がし、暗黙の指示として遠く飛躍することを促されているようで落ち着かないのだった。

洪水によってあらゆる差異も同一線上に並び、混沌とした中、最も高いものと低いものがひっくり返るカーニバルを経、(場所的にも政治的にも)町の中心であった田宮家はスケープゴートと化し、星谷景生やタヌキ先生というトリックスター等は神聖化されるという象徴的な引っ繰り返しが巻き起こる。その後、競争する者同士は転がる達磨に巻き込まれてゆくように共々死んでゆき、まさに鏖(みなごろし)的決着の上、とりあえず物語りは平穏を取り戻すのだ。その過程の中でも最もグロテスクな事件は、父親殺しを果たす隅元光輝が、もう一つ彼の施した死体から鋏で切り取った陰茎を田宮明に送りつけ、それら諸々パン屋の倉庫で炎上し、二人とも死亡するというものだ。あからさまにフロイト物語に読めてもしまうが、この西暦2000年にしての神町の戦争(もしくは戦争の盂蘭盆会)を物語る上で格好の象徴的な出来事である。それでもって二人が争う種となる田宮明の愛娘、彩香が隅元光輝の子を生み、名を「光明(光輝の光と明を合わせたもの)」と名づける後日談までついているのだから抜かりはない。しかりそこには<ニセ阿部和重>の登場もあるのだが…

ちなみに書籍の『SINSEMILLAS』の文字が動物化している。東浩紀ならこれを見てなんと言うだろうか…