晴天つぶし

アメリカの夜 (講談社文庫)アベ文庫は新潮文庫だけではなかった!
ニッポニアニッポン』以降(以降、という序列は書籍の発行順ではなく、私が阿部作品を読んだ個人的な時間軸に基づく)、阿部和重の著作との出会いは「新潮文庫」という低価で汎出没的な出版形態による媒体が中心であり、私と阿部の蜜月となった先週の阿部ウィークにおいてはもっぱら新潮文庫において展開された。しかし、読めば読むほど阿部は足らず、という欲に導かれようやく講談社文庫『アメリカの夜』へたどり着いた、かにみえた。

読書へのあらゆる障害、それは具体的には、私の阿部時間を妨げる日常の仕事であったり、阿部本を開くスペースを奪う満員電車の密度であったりする。先日の朝の小田急線などではいつ何時、電車の揺れによって目の前の中年の男の肩にかかる膨大なフケがこの私のオリンピアたる阿部本に落ちてきやしまいかという臨戦状態を強いるばっかりに、ただでさえ僅少な読書のための精神的な隙間さえ奪うのだ。
このような繰り返される搾取に対する当てもない殺意が私を巡る中、阿部の兆候の出現、もしくは微々たるにじり寄りをみることはできるのか?

たとえば、潜在的に阿部が重ねられていたこと、それによるあらゆる間違い(というか虚偽)に対し我慢しきれず、というよりは逃げることこそが我が使命、だとばかりに指名するそのあざとさ。阿部和重、シゲならぬS、いやそれさえも「かっこ悪い」(あくまで形は洗練されてなければならない)のでエスと呼ばれることになった「ゴーストライター(幻の書き手)」によって記録される(語られる)唯生。相対する二人の「狂気」を巡る奪い合い、その奮闘こそが「型」を得る最後の手段なのだとばかりに切迫し、身振りの訓練に徹底するがために、たかが公園の遊戯施設さえ、あたかもそこはアフリカの密林地帯であるかのように振舞うことで生き延びようとする。最大の祭りたる映画のために、命がけだ。昼さえも夜に塗り替える映画的狂気に向かう唯生とその終演。いや、まだ終わっていない、白い空席はなお唯生、もしくはエスを誘惑し、駆り立てつづける。

白をみたら塗れ、とにかく埋めろ、晴天つぶし、暇つぶし。最近ではもう人生の暮れにさしかかっている老人どもでさえ、ハヤリの脳ドリルなんかで慌しく塗り絵をしているよ!と促されるがまま、『アメリカの夜講談社文庫は読み終われども、誘惑されるがままこうして白い画面を前に日記を書いてしまうのだ。