書店員、客と見紛う

某大型書店で勤務して半年がたつ。
書店員として訓練され、今やほぼ潤滑に役割を果たしている。
と思うのは妄想で、それほどの経験値などほぼあてにならないことが分かった。
というのも、今日は店員でありながら、公然と客の振る舞いをしてしまうという自体に陥ったからだ。

このような仰々しい前振りなしでは語れない誇張癖をもった私は、これから語るものが日記というのにふさわし簡単なエピソードであることを忘れつつある。

その時私は、いったん並び始めると、磁石に張り付く砂鉄のように一挙にふくれあがるレジの行列を消化するため、「金はもらっているが、やはりこき使われている!」というはがゆい思いに耐え、有無も言わずに手の油がなくなるほどの懸命さでスピーディーに本にカバーをかけまくっていた。
そんな私の耳に、なだれの音が飛び込んでくる。
音のする方へ眼をやるとそこにはあらゆる持ち物を床に散乱させた老人が立ち尽くしているではないか。
今は一人でも欠員することは命とりであるようなレジの行列を尻目に、私はいったんカウンターから出て散乱する老人の様子を見にゆくと、老人は、親切な通りすがりの客が拾ってくれた彼の荷物を再びボロボロとこぼしている最中だった。
彼の荷物とは、彼に選ばれた多数の書籍と長い杖である。
どうやらレジに並ぼうとしているらしい。
だが老人の手の筋肉は、もう一瞬たりともそれら荷物を留まらせないほど緩んでいたのだ。
私は、よくもそんな状態でこれだけの本を選びそれを持ってここまで来れたものだと感心した。
きっと老人は細心の注意をはらって最大限のバランス感覚を発揮させ、ここまで来たのだ。
しかし彼はレジを目前にふと気が緩み、あらゆる注意力がふっとんで復帰できないまま、今はもうこのように物をぶちまけ呆然自失になるしかないのだろう、とそこまで考えた私は店員の義務として彼の代わりにその多くの書籍を抱え、レジを済ませざるをえなくなった。

そこで私は悩んだ。
老人の代わりにレジを済ませるのはいいが、果たしてこの行列に並ぶべきなのかと。
レジがすいているならば、迷わず自らカウンター内に入り、会計の手続きに入るのだが、今はこのように長い行列が出来ている。
老人がヨレヨレだからといって彼だけ特別扱いでこの行列の一切を無視し、優先して会計を済ませてもよいものだろうか、そうすることは、例えば障害者の特別待遇に対してそれは差別だと社会が非難する論理によって、ここで苛立ちげ並ぶ行列客たちが一斉にブーイングの嵐、しまいにはお買い上げボイコットをおこなうという事態に発展しやしまいか、と。
だからといって、こんなに脱力しきった老人に大量の重たい本を持たせ、長い間行列に並ばせることはできまい。
答えは分からぬまま、私の足は行列の最後尾へと向いていた。
店の制服を来たニセ客として並ぶ挙動不審な様子の私を、同僚が「何してんの?君」と尋ねなければ、私は客の行列に並ぶ滑稽な店員をそのまま続行していたに違いない。
思考が交錯し混乱してほとんどうまく説明すらできない私に頼らず自力でその状況を解釈した同僚は、即断でその老人をレジに導いてくれたので一先ず一件落着だ。
後から「何で並んでんの、ほんと君って面白いね」という感想を同僚からもらいながら、そうか、店員が行列に並ぶのは確かに滑稽であるなぁ、と事態を振り返った次第である。

このように同僚の助けもあって、<店員が客になってはいけない>という暗黙の店ルールが寓話的1コマとして浮き彫りにされた。そのルールがホントかウソかは別にして、やはりこの事件に対する解決策としては同僚に促されたこのやり方が一番効率がよいのは確かなような気がする。