阿部が重なる

無情の世界 (新潮文庫)雑種犬の快楽を味わうがため、今日も阿部和重を読む。
今回は新潮文庫の『無情の世界』である。
掲載された三作品とも面白かった、喜劇だ、実際爆笑した。

『鏖』に詳細に記されるデニーズ・メニューのカロリー数値が、だんだんドラクエのHPの数値に思えてきたのは私だけだろうか。
オオタタツユキの前に次々と現れる破天荒な暴力者たちはあたかもモンスターだ。
あまりに破壊的なので、これを読んでいる途中、うたたねをした私は夢の中で頭から墜落するという暴力的な死を遂げてしまったほどだ。
夢の中の私はダム管理員で、なれない現場をまかされ、巨大な流れるプールのようなダムの波に流されている。
しかもダムに巻き込まれ流される一般人を、自身勝手が分からないくせに出口へ誘導しようとし、思い込みで地上に繋がっていると判断した<滑り台>(今思えばあれは滑り台というよりも滝だった!)を滑ると(というより落ちると)、水がたまっていると思われた底はコンクリートで、脱出するどころか一般人共々死亡するというお話だ。
どこで自分が死んだと自覚したかと言うと、私の早とちりやおっちょこちょいによって一般人を死なせたことを上司(この人は現実の私の職場の上司だったのだが)が幽霊になった私に対し怒り、注意し、同じく幽霊になった死んだ一般人も激しく私を責めるからである。
そんな私に対して謎の美少女が「大丈夫大丈夫」といって私の顔をぺろっとなめて慰めるのだ。
夢の中での私の頭が激突する痛みは、起きると、不自然な姿勢で寝ていたために詰まらせた血管が痺れる痛さにかわっていた。
存分に精神分析されそうな夢をみてしまったが、それもこれも小説のせいである。

『無情な世界』はとくに私ならではの特殊な読み方をした。
私は各場面をいちいち大江健三郎の作品になぞらえて読んだのである。
例えば、「僕」が公園で花火をする子供たちをシャブを吸う危険な中学生集団に間違え、着衣のまま放尿し、そのまま猛スピードで駆けてゆくシーンは、『セブンティーン』のおれが体育のマラソンの授業で放尿するシーンであるし、妹の目から逃れるようにシャワーを浴びるシーンは、『セブンティーン』のおれが自慰のため風呂に長く入るのを自衛隊の看護婦をする姉や母に気がねするシーンであるとした。
また、公園での快楽殺人の容疑者が高校生とその親父の関係というのは、『「雨の木」を聴く女たち』にある『泳ぐ男』という話の中の容疑者玉利君と作家である中年の「僕」の関係そっくりだった。

『トライアングルズ』も最高だ。
なんたって小学生が「あなた」へ、狂気が「悪」である無根拠を説き、狂気と正気の曖昧さや、狂気と呼ばれるものに対してのちょっとした理解を求めるのだ。
これは先生が小学生に、かたすぎず柔らかすぎず、弛緩した状態がよいと教えるのに通ずる現代的『狂人日記』ではないか。何よりも、ストーカーというポストモダン的な行為を、これまたポストモダン的に物凄い饒舌で小学生一人が語る(よって、全ての人の言葉も地の分も小学生の胸の内も全部いっしょくたんだ)お話だということが二重三重に凄い。

日記としては長くなりすぎたのに、言いたいことは言えば言うほど増殖してしまうようだ。
ここらで「見境」をつけることにしなければ。