『嗤う日本のナショナリズム』を巡る安易な覚書

ひさびさに実家の大宮に帰省したらJR駅構内に驚いた!なんじゃ!成城石井みたいなスーパーやら喫茶店やらリブロやら、おまけに服飾店まで、あたかも階層のないルミネ(駅ビル)みたいなのが平面上に広がってるよ(詳細はこちらJR東日本:プレスリリース:「JR大宮駅」エキナカ商業空間『ecute大宮』の店舗が決定−2005年3月5日(土)グランドオープン−)!アッチョンブリゲ!これなら15分に一本位しかこない高崎線の下りでも、なんの苦もなく待てるよ。図書館もあれば最高だね、と空想するnekowani。(図書館があればいいのに、と思うような財布の硬い輩は、けっして電車を待つためだけに喫茶店に入るような消費活動はできまいと自覚しつつ、それでもこうこうと照かる照明に朦朧としながらつい商品を次々に手に取り興奮。)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)さて、話題の北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』。最近愛用の図書館より入手。早速手にする。とりあえず精読ではなくさっと読み、ついでに東浩紀動物化するポストモダン』を少し読み返す。北田は1980年を中心として1960年から2000年までをあえて繋げて論じることを試みるが、東浩紀は戦略的にネット興隆以後のオタクに線引きしている。双方はともにコジェーブを引き合いにしつつ(というか、本人も語るように、北田が60年代(連赤的なもの)〜70年代から現代(2ちゃんねる的なもの)を繋ぐような今回の論を展開するきっかけとなったものが『動物化する世界の中で』であったということであるなら*1すでに、東が語るコジェーブをも踏まえざるえないのだろう)、現代の様子(オタク)を東は「スノップなき世界の動物化」(データベース的動物)と呼び、北田は逆に「スノビズム純化」と呼ぶ。ただし、北田が『嗤う〜』脚注で述べるように、現代の徴候(オタク、あるいは2ちゃんねる)から、東も自分も「歴史」「人間」をもネタ的に消費する形式主義的な行動様式を読んでることには変わりはないとしている。

ただし、東はあくまで、1960年から2000年までを繋げてしまうのは北田は「高度なメタゲーム」をおこなう「否定神学」的な思考からは逃れられていないと指摘し、批判しているようだ。*2

1960年代頃には通用したパフォーマティブな言葉の力の無効(もしくは弱体)である今、コンスタンティブな詞がヒュンヒュン発送されるテクストを夢見ている、と語る東*3にとって、北田の「1960年から2000年までを繋げる」ことはやはりコンテクスト(観客の顔)を意識したパフォーマンスであり、そのような行為は大きな物語が消滅している現在ではあまり有効ではないよ、ということ強調したいのかな。

感想として、自分の触れてきた世界、特に文学においては1960年代的なところで限界かきていてそれ以降のいっきずまりを実感しているし、北田の論を(浅はかな身でありながら)読んで「なるほど」とも思ったのであるが、その上で意識的にネット時代のオタク世代に線引きをする東に非常にひかれる。ただ、正直「コンスタンティブな詞がヒュンヒュン発送されるテクスト」がどういったものがイメージ的なもので具体的にはよく分からない。単に私の程度の低さが問題だけなのかもしれないが。何かこんな頭の悪いnekowaniでも分かる伝手があったら誰か教えて欲しい。

*1:参照:2005-04-02

*2:参照:hirokiazuma.com

*3:東浩紀『郵便的不安たち#』朝日新聞社 2002