カマタリ大火の戒心

ユーロスペース舞台上での鎌田氏

なぜだろう。
レフトアローン』鑑賞以来、厳密には『ブックレット重力NO.1「LEFTALONE 構想と批判」』読んで以来、鎌田哲哉が頻繁に思い起こされる。
それはごく具体的な日常生活の中で、例えば書店(nekowaniの生計は書店員としての働きでまかなわれている)で得体の知れない問い合わせ(諸々ある)をする客に激昂する胸中に湧き上がる罵言(あくまで胸中で処理、声に出したら明日からお米が食べれない)に対し、「今のはいかにもカマテツ的であったことだ」と怒りを相対化し、鎮圧してみたりする。
とにかく、彼の印象はビジュアルもパロールエクリチュールも全てにおいて強烈であり、その存在は私の中で日々大きくなるばかりだ。

私が持っている唯一の彼の著作は、大西巨人五里霧』の解説である『「連絡船」としての短編小説』(講談社文芸文庫 2005年 ISBN406198392x)である。ここではいかにも文学青年といった態度、さすがに暴走はない。単に彼の狙い通り「あぁ『神聖喜劇』読みたいな」と思わせる程度だ。

Googleで「鎌田哲哉」で調べてみる。彼のもう一つの『五里霧』に対する紹介文『大西巨人ダイナモ』の記事を講談社文庫のホームページで発見。ここでは彼は読者の問題について言及している。(http://shop.kodansha.jp/bc/bunko/pocket/200501/005.html

だが、それとは別の気がかりがある。それは、「読者」の問題である。そもそも今日の日本社会が、その強度と硬度において大西の文学に値するのか、という決定的な問題である。かつて中野重治が「悲しみということの滅亡」について述べた時、中野は明晰な状況分析と失われた可能性への痛みを伴う石川啄木の「悲しみ」が、高度成長時代の文学ファンによって陳腐な感傷へと切り縮められる事態を的確に伝えた。だが大西巨人を囲む状況ははるかに悪い。たとえば、「ひとりで立つ」ことをモチーフにする本書の短編「雪の日」を読むと、今日の日本が「『ひとりで立つ』ということの滅亡」と言うべき感覚麻痺にあることを私は逆に痛感する。もう何年も、ムラの掟を破った個人が、権力ばかりか草の根からも制裁を受ける光景が止まない。馬鹿な政府しかもてない馬鹿な国民に見合った、匿名に逃げこむ集団的暴力とコンフォーミズムの実例がいつまでも後を絶たない。


「そもそも今日の日本社会が、その強度と硬度において大西の文学に値するのか、という決定的な問題である」といい放つあたりがいよいよ鎌田リ的である。

更に重力 - ハイブリッド・マガジンを覗く。ここではより一層の速度でもって疾走している鎌田の姿が見えるだろう。例えば『WEB重力の今後について』(http://www.juryoku.org/index.html)はこんなかんじだ。

現在、「重力」編集会議では、参加者や既成の書き手はもちろん、未知の若い書き手にも、WEB重力の場で広く自らを問うてほしい、と考えている。同時に、狭義の「重力」云々から独立した、様々な主題で書評や理論的分析を書いてほしい、とも考えている。諸方面への依頼も含め、この企画は次第に実を結びつつあり、三ツ野氏や古谷氏のエッセイが前者の、松本圭二大岡信論や 秀実の「帝国」書評が後者の例である。本当は、参加者一人一人ががんがん書きまくればよく、私自身にも、連載「下らない奴は全部やっつける」の予定があるが、当面自分の遅筆に苛立つほかない。とにかく、楽しみにしてほしい。いや、楽しむばかりでなく、自分自身で投稿してはどうなのか。残念ながら原稿料は出ないが(依頼原稿の場合も1件3000円しか払えない)、選考の上、我々は「何か」を含む文章を確実に掲載するだろう。無論、書く以上は試練にさらされる準備と緊張を投稿者に求める。特に、拙劣な中傷や文句やウイルスメールをよこす連中は相応の返礼を覚悟すべきだ。場合によっては回線を逆に伝って駆除しに行くこともある。
2003年7月6日 鎌田哲哉


駆除された者はおるか?「下らない奴は全部やっつける」という名のおそろしい連載は始まっているのか?
とにかく拾えばいくらでも出でくる。彼のこの絶壁落下するごとく煮えたぎる怒り、徹底した潔癖な意志(というか決意)はどこからやってくるのか?もう昔のものになるが、批評空間【批評空間アーカイヴ】の中で浅田彰の鎌田に対する面白い記事を発見する。『領域を横断する怒りの批評』(
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice9906.html)と題されたその記事はまことに的確に鎌田の特色を捉えているのではないか?

注目に値するのは、それを論じる鎌田哲哉が、自らその怒りを生きていることだろう。そこには、マイノリティへの感傷的な感情移入など、かけらもない。ただ、ひたすら燃え上がる怒りがある。


丸山真男論(『群像』1998年6月号)』読まなければ。しかし彼は批評空間において浅田彰にさえ怒りを「炸裂」させたのか…

文学の死が噂される昨今、誰も文学の力など信じていないどころか、見向きもしない。そんな時代にこの鎌田哲哉という人物は文学聖人のように振舞う。鎌田は、くだらない大人をまずすべからくやっつけてやる云々といった暗い呪詛まで唱えあたりをおびやかすのだ。
とにかく彼はなにか常に強烈に怒っており、その常軌の逸脱っぷりはまわりから理解不能を買い、ますますの孤立を誘いかねないが、一方でその破天荒ななりふりに何か惹くものがあるように感じる。その魅力はあたかも卓越したエンターテイナーの放つもののようだ。正直、結局はサークルスペース移転阻止運動も照れ隠しみたいに茶化したり、常に相手を伺うようにしか話さないすが秀実主演の『レフトアローン』(実際、この映画は柄谷やら西部やら松田やら津村がそれぞれ語るばかりでほとんど会話の交差点がなく、時代の証言みたいなテレビ番組程度のなまぬるさしか感じられなかった)より、鎌田の怒りの身振りの方がよほどエンターテイメントとして面白いのではないか?という感想が私には残っている。
あまり大きな声で言ってはいけないのかもしれないが、鎌田哲哉の著作を探して読んでみたいと思っている。

*画像
http://www.leftalone.biz/whatsnew.html