目覚めよと猫庭は怒る

目覚めよと人魚は歌う (新潮文庫)人づてに評判を聞いたので、星野智之の『目覚めよと人魚は歌う』(新潮文庫 2004)読んでみた。
しかし、なんというか、これほど言葉が思い浮かばない(正確には、罵倒以外の、節度を持った言葉が浮かばない)小説を久しぶりに読んだ。解説は巻末の「星野智幸さんの小説を読むことは、たったひとりで異国を旅することに似ている」とのたまう角田光代に任せておけば充分だろう。この小説がいかに「ロマンチック」な「私探し」の「旅」であるかは、角田が、まさに身をもって十二分に説明している(悶絶)。もし、私が何かそこへ付記できるとすれば、登場する人物たちに天皇制の呼び名を隠喩していること位だ。

日曜日と書いてヒヨヒトと読むヒヨ、エル・ヤマト、タケリートという名の日系ペルー人三人が登場する。日系ペルー人と日本人暴走族との間の抗争で、エル・ヤマトが殺されたので、怒る兄・タケリートが復讐を企てる。怒るタケリートは「日本人でもペルー人でもあり、そのどちらでもない」「猛人(たけるじん)」と自らを命名、それに対して中立の証人として「日曜人(ひよじん)」という名をヒヨは担う。タケリートが留置所で「正しさで輝いている」あいだ、ヒヨは恋人のあな(ちなみに、日本に「デカセギ」に行ったヒヨの従兄の名はアナ・マリア)と逃亡し「正しさから離れて」いくばかりだという。

こういった天皇制の隠喩は、社会的なコンテクストを引っ張りだす装置なのだろうか。ここで動体視力をフル稼働させテキスト論で切るべきなのかもしれないが、その気もおきない。なぜなら私たちにとってこれらの背景は遠すぎて通りすぎても構わぬ程度にしか感じられないからだ。実際、多くの読者は角田の解説のように、「私」という内面をひたすら見つめうっとり出来ること位にしか、この小説に価値を見出すことができないだろう。場面の片隅に見過ごされる程度の小ささでひっそり御真影を奉っても、それ自体のメタファーとしての働きかける力が非常に貧弱で機能不全でかえって不愉快になるほどだ。そういう意味でこの小説は、結局は閉じこもることに安住した安易な読者しか獲得できないだろう。